東洋大学食環境科学部の吉江由美子教授は、日本近海で捕鯨されるツチクジラ赤肉の栄養成分や機能性について研究している。試験管を使った実験では、バレニンとカルニチンというジペプチドによるアンジオテンシン変換酵素(ACE)の阻害活性が確認された。今後は、赤肉の消化の過程でできるオリゴペプチドやジペプチドの影響を加味した実験を行う予定とのこと。血圧の上昇抑制効果を調べ、廃棄されている部位の有効利用法などを探っていく。
ツチクジラは、小型のクジラの一種。日本近海では、房総半島より北に生息している。小型クジラは現在、日本で年間160頭ほど捕鯨されており、そのうち約70頭をツチクジラが占めている。なお、捕鯨基地は北海道網走市・宮城県石巻市・千葉県南房総市にある。ツチクジラは、生鮮肉のほか缶詰などの加工食品として流通している。房総半島に江戸時代から伝わるツチクジラの干物「くじらのたれ」は、有名な加工食品の一つだ。
ツチクジラの捕鯨は、17世紀ごろに始まったとされている。日本の食文化の一つだが、近年はツチクジラ肉の販売量の低迷が続き、水産漁業者の収益も悪化している。背景には、食の嗜好の変化などがある。「ツチクジラの未利用部の有効活用や高付加価値化による状況打開を目指して、現在、主にツチクジラ赤肉の栄養成分や健康効果について研究している」と話すのは、東洋大学食環境科学部の吉江由美子教授だ。
ミンククジラをはじめとするクジラの肉には、鳥類や回遊魚の持久力の源として知名度を上げた「イミダゾールジペプチド」が含まれている。ヒスチジンとアラニンという2つのアミノ酸が結合したイミダゾールジペプチドには、「カルノシン」「アンセリン」「バレニン」がある。3種のイミダゾールジペプチドのうち、クジラには、鳥類や回遊魚には見られないバレニンが特に多く含まれている。なお、クジラ肉から抽出されたバレニンの健康効果として、ストレス・抑うつ感軽減作用、抗疲労効果などがこれまでに報告されている。
2013年、外房捕鯨(千葉県南房総市、庄司義則社長)から依頼を受けた吉江教授は、ツチクジラの研究に着手した。吉江教授によると、「食経験は長いが、ツチクジラ赤肉の成分分析は行われていなかった。分析した結果、アンセリンは確認されなかったものの、生鮮肉100gあたり37.86mgのカルノシン、872mgのバレニンが含まれていることがわかった。バレニンは顕著で、量はマッコウクジラより著しく多く、バレニンが豊富なミンククジラと同程度だった」とのことだ。一般的に食されている豚肉と鶏肉には、それぞれ100gあたり462mg、150 mgのカルノシン、10.7mg、677 mgのアンセリン、33.4mg、5.41mgのバレニンが含まれている。
ペプチドの中には、血圧上昇にかかわるACEという酵素の阻害活性を持つものがある。バレニンのACE阻害活性に関する報告はなかったため、吉江教授は2014年にはツチクジラ赤肉の高血圧予防効果の検証に乗り出した。ツチクジラ赤肉のエタノール抽出液を用いて実験を行ったところ、ACEの働きを50%抑えるのに必要な量は4.01mg/mlだった。抽出液の中には0.124 mgのバレニンとカルノシンが入っている計算となり、ジペプチドとしてのACE50%阻害量は516.8mMと推算できたそうだ(阻害活性がジペプチドによる働きと仮定した場合)。
吉江教授によると、「ツチクジラ赤肉を食べると、消化の過程でたんぱく質が分解されて複数のペプチドができる。カルノシンとバレニン以外のジペプチドや、2〜20個のアミノ酸が結合したオリゴペプチドの働きも加わり、ACE阻害活性が増すことも考えられる」とのこと。豚肉や鶏肉の酵素加水分解物(ペプチドに富むと考えられるたんぱく質部分分解物)についてはACE阻害活性を示すことが報告され、ペプチドの構造まで調べられているものもあるそうだ。
ただ、健康に寄与するこれらのペプチドを得るために行う酵素処理と、摂取後の消化に伴う酵素作用によって得られるペプチドの健康寄与に関する研究は立ち位置が異なるものである。現在までにツチクジラを摂取し、消化過程において生じるペプチドなどの作用は明らかになっていないため、今後は、ヒトの消化と同じ加水分解処理によって得られるペプチドのACE 阻害活性を検討していく。
「商業捕鯨は、水揚げする船ごとに割り当てられる捕獲枠の設定など、国のルールに基づいて行われている。研究が進めば、利用されずに廃棄されているツチクジラの各部位を赤肉だけでなく機能性食品原料などに利用することもできるのではないか」と、吉江教授は最後に話してくれた。